昭和56年8月23日 朝の御理解 【 末永信太郎 】
第58節 人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人を しておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神 がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。
悪口を言われると。まあ、悪口の極端な例を上げて、まあ、教えておられる訳です。泥棒だとか、乞食だとかと。もう、いよいよ悪口の極端な悪口です。ですから、これは、そういう極端な悪口じゃないにいたしましても、まっ、陰口を言われる。ね、やはり悪口を言われると、(ふった?)ような場合もあります。そういう時の、まあ、頂き方というのが、まあ、色々ありますけどね。
本当、泥棒と言われて見りゃあ、やっぱり泥棒だなあと。乞食じゃと言われて見れば乞食じゃなと。人間、ギリギリ極めて参りますと、そういう事になるんです。ね。まあ、昔の先生方は、おかげを頂いて、そして信心をスパッと止める人の事を、おかげ泥棒と仰っとった。ね、まあ、そういう意味で泥棒という言葉を使うならば、お互いがおかげ泥棒である。または、乞食根性というものが、私どもの心底の中にはあるんだと。
なるほど、言われてみればそうだと、こう自分というものを深く見つめるという風に頂いても良し、また、それが段々おかげで大きな心で一つも触らないという風な頂き方も有り難い。そういう度に、しっかり信心の帯をせよと仰るから。ね、そういう度に、また一段と信心を深めて行くという、様々なその受け方、頂き方( )あると思うですね。
昨日は研修の時に、昨日は鹿児島の共励会、佐賀の共励会。それから、25日の合楽祭りの準備というので、先生方が14~15名ここに出ておりませんでした。毎日、御理解をまとめて、そして、その何人かの人達がまとめたのを、まあ、1時間あまり研修するんですけれども。昨日は、いつもまとめる先生方が皆、外へ出ておった。ですから、女の先生が一人か、二人か。まっ、まとめておるだけで、発表が出けなかったわけ。
だから、まあ、研修という研修にもならなかった訳ですけれども。と言うて、んなら、私が、なら、朝の御理解を頂いて、疑問点はなかったかと。分からないところなかったか。または、はあ、なるほどここの、今日の御理解の頂き所はここだと、例えば一言でも良いからなかったかと。手を上げてから答えてごらんと言うてん誰も答え手がない。ね。まあ、例えて言うならば、昨日の朝の御理解を頂いた後に、北野の秋山さんがお届けをされました。
まあ、日々の事ながら、今日の御理解はまた、もう本当に素晴らしい、有り難い御理解でしたと。どこがそんなに有り難かったんですかと。もう、天地人一女?一女の世界というのが、今日の御理解を頂いてハッキリ、改めてわからせて頂いた。と言うて、もう本当に芯から、いよいよ新たな事が、まあ、例えば、んなら、今日の御理解でも同じ事ですけれども。もう、とにかくどれだけ頂いたか分からんのですよね、30年間の間には。
もう、繰り返し繰り返し、繰り返し頂いてるんですけれども、その繰り返し、繰り返し頂く中に、その都度、都度に、ここだけは、今日だけ、ここだけは今日初めて頂いた御理解という事になってるんですね、合楽の場合は。だから、もう一日でも、だから聞き逃しては勿体無い。そういう、言うならば受け方、頂き方をすれば、まあ、それは信心の程度、または頂き方で色々違いましょう。
けれども、まあ、その、芯になるところをピシッとこう頂き止めて、おかげを頂いたとお礼を言う人さえ(あったまねえ?)。その事だけを、まあ、言うならば洗練させてもらっておる、専行させてもらっておる皆さんが、なら、どこをどうとも感じなかったっちゅうのは、ちっとおかしかばいて私が。眠り半分で頂きよりゃせんかと。ね。後から、またテープで、ビデオで頂いて、テープにとってありますから、それを、まあ、聞き返すという手もあるけれども。
それすらも聞いとらんのじゃないだろうか。何しとるとね大体と、まあ、言うような小言になって。私はいつもそういう、どうしてそんなに分からないかというのは、それは分からせきらないのだと、私は頂くんです。ね。本当に親先生の御理解は毎日、それこそ一つの構えを持って、今日はどんな御理解だろうかと、まあ、言うなら固唾を飲む思いで頂いたら、必ずどこか、はっ、今日の御理解はここだと分かるんだけれども、それが、あんまり毎日毎日の事ですから、まっ、マンネリ化するという事もございましょう。
うかつにしておる事もございましょう。ね。だから、どうして分からんのかというのではなくて、実を言うたら、分からせきらんのだと。私も昔、青年時代に久留米の恵比寿座という劇場があったが。東京で相当有名な落語、漫才師が、あの、来ました。それが、東京の漫才師ですから、まあ、九州で受けなかった訳でしょうか。誰も笑わんとですもん。
そしたら二人がね、途中で腹かいてから。もう、久留米のヤツどんばっかりは笑い道も知らんと言うて、もう大変腹かいてから、舞台を下がったんです。皆さんどう思いますか。ね。笑わんとが悪いのか、笑わせきらんのが悪いのか。ね。今日が一つ、まあ、色んな悩みを持っておる人にある人が、今日は一つ、落語でも聞きに行こうかと。ね。そして、一つ腹から笑うてこうと言うて、わざわざ笑う為にお話を聞きに、落語を聞きに行った。
ところが、笑える段じゃない、かえって聞きながら腹が立った。ね。笑うまいと思うて行った訳でもないけれども、笑わずにはおられなかった。笑うまいと思うけれども、言うならば笑わずにはおられなかった。笑おうと思うて構えて行ったのにも関わらず、笑えなかった。ね。いわゆる、名人ともなると、笑おうと思うとらん者でも笑わせずにはおかん。下手んなると、笑おうと、今日はいっちょ多いに笑うてこうと思うて、構えて行っとるモンですら、笑わせきらん。
まあ、そういうような風に頂きますと、なら、昨日の私が先生方に申しましたこと。ね。こちらが分からせきってないのだと。と、ますます、なら自分を、んなら、深く頂いて行くという、まあ、だいたいそういうような頂き方をしておりまして。終わって、4時の御祈念の時、その事を、まあ、お届けさせて頂いておりましたら。ね。もう、本当にどうした、分からん修行生やろうかと。と、まあ、言うたけれども、お前の心に一つも残ってないじゃないかと。ね、分からせきらんとも思ってないし、なら、どうした分からん修行生だろうかと。ね。
という風にも思ってない。ね。言うならば、今日の私が修行生の方達に、まあ、言うなら、まあ、聞いとる者は、やっぱりその、叱られておるとか、悪口を言われておると、まあ、思うて聞いた事でしょうけれども。こちらの心の中に悪口とも考えてなければ、どうした事じゃろうかとも思ってない。またどうして、また自分としても分からせきっとらん自分というものを、なら深く言うておる訳でもない。
もう、そのままが、教導なのだと。という事を頂いたんです。ね。教えると言うてもね悪口を言うと言うてもね。ね。心に一つもないもの。なら、昨日、まっ、2~3日前の先生方が聞いたと思うんです。本当に自分達が発表も出けなかったし、まとめてもいなかった。ね。明日からは、例えば一口でも答えが出けるくらいに。ね。いわば、出来るならばまとめの一つも書かせてもらおうかと。もし、昨日を頂いとる人達が思うておったら、それで良かったのです。
こちらの心には何も残ってない。ね。だから、自分というものをギリギリ見極めて、泥棒と言われりゃ、なるほど自分、泥棒だな。乞食と言われれば、乞食根性がやっぱりあるんだなという風に、深く見極めて行くという事も、場合には大事ですけれども。それは、卑屈になりますね。分からせきらん自分と。ね、これが、漫才師から(ごうしっか?)であるなら、笑わせきらん自分というところに、ますます、言うならば稽古がいる事になりますけれども。
昨日の私の場合、んなら、まあ、一人ひとりに、まあ、言うならば、何て言うでしょうかね。まっ、アンタだん、何のためにここで稽古しよるのといったような悪口であったであろうと思うけれども。こちらの心にも残っていない。そして、研修ではなくて、その時間を。ね、まっ、そういう叩頭を聞いたわけである。明日からまちっとシャンとしなさいという事は言わないけれども、それが、んなら、一つの、まあ、景気となって、これは本当にいかんなと。
任せて何人の者がまとめておるだけに頼っておっていかん。自分達が、やはりまとめもしなきゃならんと。という風に、御理解もまちっと芯から頂かなければ変事すら出けない。返事したところで、見当違いの、言うならば核心に触れる事が出けない。本気で頂きよれば頂き所もキチッと頂けれるのだけれども、それが、やはりマンネリ化しとるのじゃなかろうかという風に、私は申しました後で、ははあ、今まではこういう場合であったら、分からせきらん自分として自分というものを、こうイジメた感じになって来るんだけれども。
ね、あれが、そのまま、教えであり、教導であるという事になれば、まあ、たまにはそういう教導も、また良いんだなと。もちろん、それには私の心の中に、ね、んなら、どうした分からんヤツどんじゃろうかというようなね。そういうものが、こっちの心にサラサラない、なかったという事。その事が、私は昨日御祈念中に頂いた。ね、それもやはり、そういう一つの教導なのだと。また、受けた者もそれを教導として、そこに、また思いを変えて行くという生き方になれば、そこに効果がある。
悪口を言うとか、言われるとかと。というような場合であっても、その受け方。これも、2~3日前でしたけど。ある、月次祭なんかには大きな車で、皆その地方からお参りをして来る。ところが、帰り道にその、幹部という人達がある人の事をしっかり、この悪口を言うて帰った。それを聞いておったある人が、はあ、信心しとってもあんなに悪口を言わにゃんごたるなら、もう私は参らん。もう、これからは参らんと言うたと、いうお届けがあった。
なかなか、本当に考えなければ。信心させて頂いておる者として、考えなければならないなと。うかつに、言うならば批判。批判と言うても、やっぱり悪口である。したり、悪口を言うたり。ね、本当に有り難い事だけを、まあ、言うて行けばいいのだけれども、人間、ね、いつどういう風にそういうような事が出て来るから分からんのですけれども。ね。その、内容の中に。ね、本当にその人の事を思うての、心には何もない、ただその事だけしかないという悪口、または批判。
または、聞く側としても様々に、そん時頂かなければならんのだけれども。問題は最後にある、ね、そういう時にはしっかり信心の帯をせよと言われておる。悪口を言わねばならん時には助かってない時。人から悪口を言われて腹が立つ時には、それこそ信心の帯を締め上げねばならん時という風にね。とにかく、おかげの頂けれる頂き方が、その時、臨機応変に、そん時そん時で、出けるような構えを作っておきたいという風に思います。
昨日、私は例えば、これはもう、私が悪いのだ自分が悪いのだというような頂き方も、場合にはよるけれども。それがね、本当に私が悪いのだという事に落ち込んでしまうような思い方をする。ね、親が親がたないから、子供が言うこと聞かんのだと言うて、親自身はいよいよ、あの、自分というものを。そして、んなら、改まった次の信心が出けりゃええけど、出けもせんなり言うておるだけなら、そこに落ち込んでしもうて、えっらい惨めになって来るです。ね。
そういう事ではなくて、昨日わたしが、その修行生の先生方にお話したように。まあ、横から聞きよったら、まあ、言うなら不足であろう、悪口であろう。ね。けれども、それはそのまま、皆の教導の、ね。研修はしなかったけれども、研修以上の研修と言うか、教導に、まっ、なっただろうと私はそういうお知らせを頂いてから思うたんです。ね。だから、なら、悪口を言われても、言うてもです。それが、結果においてはおかげになるような、問題はおかげを頂きたい。
ね、そこには、どの場合であってもです、それが出けないとするならば、腹が立ったり、ね、また本当にそれが悪口になったりしておる場合は、思うて見て、これは信心の帯を締め直さなければいけないなという風に、まあ、頂かなきゃならんと思うですね。どうぞ。